公開日2018/12/25
公開日2018/12/25
(1)現在のローデンブルクの町並み
「倉敷の町並み保存を最初に提唱したのは、大原美術館の創設者・大原孫三郎さんの長男である總一郎さんでした」と昔を振り返る大賀さん。總一郎氏は昭和13(1938)年ドイツ外遊中に、中世の町並みが広がるローデンブルクを訪れました。まちの歴史を日常生活に生かし暮らすローデンブルクの人々の姿勢に大きな感動を覚えた總一郎氏は、「倉敷を日本のローデンブルクにしよう」、そう理念を掲げ、町並み保存の必要性を訴えたといいます。その後ローデンブルクは第2次世界大戦で甚大な被害を受けましたが、戦後、見事に復元・復興を遂げ、總一郎氏は、戦火を免れた倉敷のまちも、文化的な遺産として後世に残す必要があると想いをいだき、多くの文化人に影響を与えたといいます。
(2)大原總一郎像 (3)倉敷紡績(現倉敷アイビースクエア/明治末期〜大正半ば) (4)大原美術館前(昭和45年) (5)倉敷館(昭和46年) (6)倉敷紡績(現倉敷アイビースクエア/昭和44年)
町並み保存の序章は、戦後まもない昭和21(1946)年。總一郎氏の招き入れにより、民藝運動の父とも呼ばれる柳宗悦氏の指導で、岡山県民藝協会が設立されたことから始まります。昭和23(1948)年に同協会の外村吉之介氏が、倉敷の蔵造りの町家や蔵を「観光風致地区」に指定するよう全国へ紹介。同年には町家を活用した初めての施設「倉敷民藝館」を開館し、民藝という視点から町並みの保存を訴えました。昭和24(1949)年には、外村氏ら地元の有識者によって「倉敷都市美協会」が結成され、伝統的民家群の保存活動を開始。地域住民による町並み保存運動団体は全国でも初めてのことでした。その翌年にはイギリスの詩人エドマンド・ブランデンが倉敷民藝館の情景の美しさを詠み、昭和29(1954)年にアサヒ写真ブック『倉敷うちそと』が町並みを全国に紹介。多くの著名人や建築家らがその美しさと重要性を広め、町並みに対する住民の意識が徐々に醸成されていきました。
町並み保全の取り組みは行政に拡大し、倉敷市は昭和43(1968)年に、国の伝統的建築物群保存の動きに先行して「倉敷市伝統美観保存条例」を公布。条例上で初めて「美観地区」と表現されたのもこの年でした。さらに昭和54(1979)年には、国選定の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受け、平成2(1990)年には、倉敷美観地区の周りに建つ建築物の高さを制限する「背景保全条例」を全国に先駆けて制定。これらの条例が公布されたのは、高度成長期やバブル期の真っただ中。無秩序な建築ラッシュを条例によって抑制し、今の倉敷の町並みが守られてきたのです。