公開日2019/11/14
公開日2019/11/14
美しい白壁の町並みが続く倉敷美観地区の中ほどに佇む「倉敷本染手織(ほんぞめており)研究所(以下、研究所)」は、昭和28(1953)年に「世界一小さな学校」として創設されました。創設者の外村吉之介(とのむらきちのすけ)は、倉敷の経済や文化の発展に大きく寄与した大原家の八代目当主・總一郎によってこの地に招かれました。
その後、外村は倉敷美観地区の町並み保存に尽力するとともに、日本の民芸館として全国で2番目に開設された『倉敷民藝館』の初代館長を務めました。倉敷の民藝運動の中心的存在となった外村は、その根底にある「暮らしの隅々に民藝品をゆきわたらせ、日本中の暮らしを美しくしたい」という願いから、当研究所を開きました。
民藝品とは、各地の風土のなかで、名も無き工人(職人)の手によって生み出される日常の生活道具を指します。民藝という言葉は民衆的工芸の略語で、大正時代末期に、思想家の柳宗悦(やなぎむねよし)によって創出された造語です。当時の工芸界は華美な装飾を施した観賞用の作品が主流でしたが、柳は庶民の生活道具のなかに美術品に負けない美しさがあるという、新しい「美」の見方や「美」の価値観を提示しました。そして、陶芸家の河井寛次郎や浜田庄司らとともに、民藝品を作る手仕事の価値を高め、新たな美の基準を世に広める民藝運動を通して、物質的な豊かさだけでなく、より良い生活とは何かを追求したのです。外村吉之介を大原總一郎に推薦したのも柳宗悦です。
「一人が作れる数は知れています。だから外村先生は、弟子を育てるために自宅を開放してここを開かれたのです」。そう話すのは、外村の没後、その四男で夫・石上信房さんと共に研究所を引き継いだ妻の梨影子さん。さらに、受け入れる研究生を女性に限定している理由をこう話してくれました。
「当時は、女性のほとんどが家庭に入っていました。そのため、日用品をもっとも使う女性たちに民藝品の丈夫さや美しさを実感してもらうことが、民藝品を全国にゆきわたらせる上で重要だと考えたのです。そして、先生の一番の願いは、家庭に入った女性に、家族のための民藝品を作ってほしいということでした。ですからここでは、作家を養成するためや趣味としての染織を教えるのではなく、生活に密着したもの作りに励む工人を育成しているのです」。