公開日2023/02/1
公開日2023/02/1
薬師寺主計が倉敷絹織を去る時に後を託したのが、倉敷市出身の浦辺鎮太郎。京都帝国大学で建築を学んだ浦辺は、在学中に、オランダの小都市でまちづくりを生涯の仕事とした建築技師のデュドックの生き方に感銘を受け、「倉敷のデュドック」を目指して倉敷絹織に入社しました。薬師寺の下で営繕技師として働き始めた浦辺は、そこで大原孫三郎の後継者である大原總一郎の思想に傾倒し、以降、總一郎が思い描く倉敷のまちづくりを建築家として支え続けることになります。
「ヨーロッパ各国を視察した大原總一郎さんは、ドイツ・ローテンブルクの中世建造物群に強く惹かれ、倉敷を日本のローテンブルクにしようと考えたのです。浦辺さんはそれを叶えるために、城塞都市だったローテンブルクに倣って、倉敷の駅ビルと旧倉敷市庁舎(現:倉敷市立美術館)、倉敷市民会館、倉敷中央病院を4つの塔に見立て、それらに囲まれた1km四方を価値あるまちとして残そうとしました」と楢村さん。
浦辺は、そのエリア内だけでも、倉敷美観地区の伝統的な町並みと調和する鉄筋コンクリート造の「倉敷国際ホテル」や「倉敷文化センター(現:倉敷公民館)、明治時代の紡績工場を改修した「倉敷アイビースクエア」をはじめとする多数の建築物を手がけています。中でも、「大原美術館分館」は急激な都市化と近代化から伝統的な町並みを守る城壁として構想されたといわれています。
楢村さんは、「浦辺さんとは生前に何度かお話をしたことがありますが、常に、總一郎さんの思想を自分がどう具体化するかを主軸に設計をされていました。1964(昭和39)年に独立してからは、倉敷市などからの依頼も受けるようになり、現在の倉敷市庁舎など、町の骨格となる施設も数多く設計しています。何より、現在のモダンな建物は20年くらいで壊されることが多いけれど、浦辺さんが建てたものは全部残っている。時代の流れに耐えうるだけでなく、ことごとく倉敷らしい雰囲気を生み出すパワーを持っている」とも話してくれました。