公開日2017/12/8
公開日2017/12/8
江戸時代には、北前船の寄港地・瀬戸内海屈指の商港として栄えていた玉島。今は小さな港町ですが、町並みのあちこちに歴史を感じさせる商家が数多く残っています。いずれの商家も飾り気の少ない控えめな構えですが、邸内は洗練された数寄屋風。茶室を設けた家が多く、最盛期には町全体で400もの茶室があったと伝わっています。
現在も残る数々の茶室を調査し、新たな活用法を模索しているのが、玉島にあるギャラリー『遊美工房』を拠点として活動する「玉島茶室群研究会」です。
ギャラリーと研究会の代表を務める安原早苗さんは、こう話します。「玉島では、岡山四大茶会のひとつである円通寺の良寛茶会をはじめ、一年を通してさまざまなお茶会が開かれています。そんな玉島の茶の湯文化は、1780年に建立された高運寺が薮内流を紹介したことから始まりました」。やがて茶の湯は、商人や地主たちの間で趣味や社交手段として親しまれるようになります。
「商人の中には、お茶だけでなく書や謡(うたい)、能、香などの諸芸を茶室でたしなんだり、京都から茶道の宗匠(そうしょう)を招いて直接教えを受けたりする、『分限者(ぶげんしゃ)』と呼ばれるお金持ちもいたといいます」と安原さん。
さらに、港付近に和菓子店や茶道具専門店が暖簾(のれん)を掲げたこともあり、茶の湯文化は玉島のまちの人々の暮らしにも深く根付いていったのだそう。玉島の茶の湯文化に興味を持った安原さんは、2012年のある日、「美術品として江戸時代の茶室を見てみたい」という数人とともに古い茶室に足を運びました。その際に、主屋の建て替えなどで壊される茶室が多いことを知り、「この地ならではの文化が、時代とともに忘れ去られるのはもったいない」と考えるようになったと言います。
小さな島々が点在する遠浅の海。かつてそんな風景が広がっていたこの地域は、江戸時代(1600年代後半)に始まった干拓事業と、パナマ運河と同じ閘門式(こうもんしき)運河として我が国で最も古いとされる高瀬通の整備によって、港町へと変貌しました。元禄年間には、北前船や高瀬舟の水運により数多くの問屋が建ち並び、玉島の港は『備中地方随一の商港』とも謳(うた)われたそうです。
庄屋建築の様式を今に伝える「西爽亭」を筆頭とする江戸時代の商家や土蔵、明治時代のハイカラな洋館、昭和レトロな趣のアーケード街…。さまざまな時代が同居する古き港町を一望するなら、中心部の小高い山に鎮座する「羽黒神社」がおすすめです。この神社は、干拓工事の成功を祈る備中松山藩主が、出羽国(山形県)の出羽神社(現三山神社)の神霊の分霊を迎えてまつり、社殿を建立したのが起源とか。本殿東側には、枝が結ばれていることから「結びの松」と呼ばれる松があり、縁結びにご利益があるとされています。
(1)庄屋建築の様式の「西爽亭」(2)商人や職人が暮らす「仲買町」(3)モダンな洋風建築の「みなと湯」(4)昭和レトロなアーケード街「玉島通町1丁目商店街」(5)羽黒神社境内にある「結びの松」