公開日2018/11/28
公開日2018/11/28
倉敷美観地区の倉敷川の北側、鶴形山の裾に東西へ弧を描く「本町通り」。倉敷らしい町家が軒を連ねる通りですが、近年は倉敷在住の作家やデザイナーの営むカフェやギャラリーが続々と誕生しています。
そんな本町通りにひっそりと佇むのが、古書店の『蟲文庫』です。建物は、築100年以上と伝わる民家。第二次世界大戦の終戦後しばらくまでは煎餅屋だったというわずか8坪ほどの店内には、その多くが客からの買い取りという古書を中心に、CDや新刊本も幾分並んでいます。「それとなく集まってきた」という6000冊ほどの古書は、文学や社会、自然科学、1963 年から300巻以上が刊行されている「岡山文庫」など、ジャンルは多様。
店主の田中美穂さんは、「いろんな時代のいろんな本があるけれど、もう一度読みたいという人がいる本しか残っていかない。そういう意味では、歴史ある倉敷というまちと古本屋は相性がいいのかも知れません」と話します。
田中さんは、今から25年前、失業したその日に、古書店を開くことを突然思いつき、行動に移したのだそう。「もともと本が好きだったし、手元にあるもので商品になりそうなものは本しかなかったんです」。
古物商の許可を取った田中さんが最初に店を開いたのは、倉敷駅から西に歩いて5分ほどの川西町。資金がなかったため、手持ちの本と友人たちからかき集めた本を並べての開業でした。
「当時は二十歳そこそこでしたから、いろいろハードルが高くて希望通りの店は借りられませんでした」。そう振り返る田中さんは、その6年後、思いもよらぬ縁から現在の店舗への移転をすることになります。「以前この場所で知人がアジア雑貨と服の店を営んでいて、その閉店セール中にたまたま通りかかったのがきっかけでした」。
実はこの場所は、最初に店探しをした時に「こんなところで古本屋ができたらいいな」と思った建物のひとつ。その時は、数十年間手入れがされておらず、持ち主もわからなかったことからあきらめた物件でした。そんな経緯もあり、次に借りる人が決まっていないことを知った田中さんは、迷わず引っ越しを決めたと言います。
開業から25年。気負うことなく背伸びすることなく、淡々と当店を営む田中さんは、10年ほど前から店番のかたわら、大好きな苔や亀などにまつわる著書を世に出してきました。それにより自然科学系の本を売りにくるお客が増え、「苔愛好家の女性店主の店」として『蟲文庫』の名は全国的に知られるようにもなったのです。
倉敷美観地区の中とはいえ、特別なイベントがある時以外は、いたって静か。店の奥にある2坪ほどの畳敷きの帳場に座る田中さんは、「この仕事はびっくりするほど儲かりません」と苦笑します。それでも店を続けてきた理由のひとつは、この近辺が彼女にとって馴染み深い地域だから。
「すぐ近くには通っていた幼稚園や小学校があるし、この通りは子どもの頃によく遊びにきていた場所。古くからの友人も多くいます。倉敷美観地区が特別な場所という認識はあるけれど、私にとっては日常の場所なんです」。
あくまでも自然体で、お客と本の訪れを待つ田中さん。時間さえゆっくりと流れるかのように穏やかな空間には、思わぬ一冊との出合いが待っているかもしれません。
「岡山コケの会」や日本蘚苔類学会の会員でもある田中さんが、苔についてのいろはを初心者にもわかりやすく解説した「苔とあるく」(WAVE出版/2007年)。『蟲文庫』の開業裏話やその後の日常を綴った「わたしの小さな古本屋」(ちくま文庫/2016年)など。何のてらいもない一文一文が、ほのぼのとした気分にさせてくれます。