公開日2024/10/7
全国の畳縁の大半を製造する倉敷市児島地区。その地に明治時代から続き、
全国シェアトップクラスを誇る「髙田織物株式会社」にお話を伺ってきました。
公開日2024/10/7
畳の常識をくつがえしてきた畳縁メーカー。
今、挑むのは「畳縁(たたみべり)」の新たな価値づくり
全国の畳縁の大半を製造する倉敷市児島地区。その地に明治時代から続き、
全国シェアトップクラスを誇る「髙田織物株式会社」にお話を伺ってきました。
かつて「吉備の穴海」と呼ばれた岡山県の南部一帯は、江戸時代に始まった大規模干拓によって陸地となりました。干拓されたばかりの土地は塩分が多く、塩分に強い綿やイ草が盛んに栽培されていたことから、綿を原料とする繊維産業が興り、児島唐琴地区では真田紐をはじめとする細幅織物が作られるようになりました。
やがて1921(大正10)年、児島商工会議所初代会頭の松井武平が、無地で光沢のある畳縁「光輝縁(こうきべり)」の製法を浜松から児島唐琴地区に持ち帰り、地域の人々に広く伝えました。これを機に畳縁の生産が始まり、一大産地へと発展していったのです。
畳縁とは、畳の縁につけられている織物で、畳表の角の摩耗を防ぎ、畳と畳の隙間をなくす役割も担っています。その歴史は古く、奈良時代には畳縁の模様や色で身分を表していたともいわれます。
畳は江戸時代の中頃に町民の間に普及し、明治時代に入ってのち、農村にも広まりました。しかしこの頃の一般向け畳縁には普通の織布を裁断したものが使われており、現在のように丈夫な畳縁が当たり前となったのは「光輝縁」の誕生以降なのです。
そんな畳縁の全国シェアトップクラスを誇る「髙田織物株式会社」が、児島唐琴地区で創業したのは1892(明治25)年のことです。「6代前の髙田徳太郎が明治元年頃に備前小倉帯地を製造し始めたと伝わっているので、そこから数えると細幅織物の製造は150数年になるのですが、公的な記録として残っているのが明治25年なんです」と現社長で6代目の髙田尚志さん。
備前小倉帯地から真田紐、そして昭和初期に畳縁の製造へとシフトしてきた髙田織物は、その後いくつもの転機を経て、畳縁のトップメーカーへと成長していきました。