公開日2018/08/16
公開日2018/08/16
かつて幕府の直轄地「天領」だった倉敷では、町衆と呼ばれる裕福な商工業者が経済力を背景に自治を進展させ、独自の文化を築いていました。そんな江戸時代の中期、綿の仲買や米穀問屋を営んだ大原家は有力町衆となり、明治時代には庄屋を務めるほどの大地主となりました。
六代目・孝四郎は、天領として栄えた倉敷が明治維新を機に衰退し始めた時、再興のために資金を投じて、当時の花形産業だった紡績会社(現クラボウ)を設立。その三男として生まれた孫三郎は、それを全国規模にまで発展させ、中国合同銀行(中国銀行の前身)や中国水力電気会社(中国電力の前身)の礎も築きました。その一方で、大原美術館や倉敷中央病院、大原奨農会農業研究所(岡山大学資源植物科学研究所の前身)なども創設します。その長男として生まれた總一郎は、倉敷の町並み保存を誰よりも早く提唱し、大原美術館を大きく発展させ、倉敷民藝館の開館にも尽力しました。
倉敷の町が育んできた「民活の精神」と、社会貢献思想を色濃く受け継ぐ大原家代々の当主は、町の発展に多大な貢献をしてきたのです。
倉敷美観地区とその周辺には、大原家ゆかりのスポットが多数点在しています。
大原美術館は、「日本の画学生に、本物の洋画を見せたい」と願う画家・児島虎次郎の思いに応え、七代目・孫三郎が巨額の私財を投じて1930(昭和5)年に創設した、日本初の私設西洋美術館。エル・グレコやモネをはじめとする巨匠の名画や、日本の近・現代作品を所蔵・展示しています。
その正面、今橋の袂(たもと)に佇(たたず)む有隣荘は、病弱な妻を気遣う孫三郎が、「家族のために落ち着いた住まいを」と1928(昭和3)年に建設した旧別邸。後に来賓館となり数多くの貴賓客を迎えてきました。
また、ツタ(アイビー)のからまる赤レンガの建物群が印象的な倉敷アイビースクエアは、明治時代に六代目・孝四郎が建設した旧倉敷紡績所です。1974(昭和49)年にホテルやレストラン、手づくり工房などを有する複合交流施設へと生まれ変わってからは、多くの観光客が訪れる人気の観光スポットとなりました。
いずれの施設も、倉敷市の日本遺産「一輪の綿花から始まる倉敷物語」の構成文化財となっています。